第6話 平坦でない絆、新しい森の歌

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 旧聖堂の律動炉が崩壊してから数日後。

 境界街メマサマラン(Memasamaran)を覆っていた灰色の精神統制網は消え去り、街には少しずつ、不器用ながらも人間らしいざわめきと感情の起伏が戻り始めていた。

 長年『共通語』の平坦さに慣らされていた人々は、急に湧き上がるようになった喜びや戸惑いの感情に最初は混乱していたものの、やがて露店では値引き交渉の笑い声が上がり、道端では子どもたちがぎこちない歌を口ずさむようになっていた。

 

 その街を遠くに見下ろす北の丘陵道を、二つの人影が並んで歩いていた。

 ニコの肩には、再び革布を巻き直した長大な槍――かつての戦槌(ポールハンマー)ほど無骨ではないが、やはり杖代わりにするには大仰すぎる得物が担がれている。

 その隣を歩くサラエロスは、旅装束の上から風になびく外套を羽織り、晴れやかな翠の瞳で澄み切った青空を見上げていた。

 

 二人の耳元にも首筋にも、もう翻訳の魔導具はついていない。

 だから、言葉の意味は相変わらず直接は通じないままだった。

 

「……ほらよ。今日の昼飯だ」

 ニコが立ち止まり、紙包みを広げて焼きたての柔らかい白パンと、香草で煮込んだ鳥肉の包みを差し出した。

 サラエロスはそれを受け取って一口かじり、ぱっと顔を輝かせた。

「〈nenel〉! 〈masaman nenel〉!」

 サラエロスが自分の頬に手を当てて、笑顔でそう繰り返す。

 ニコはその音の響きと、サラエロスの緩んだ表情を見て、小さく口元を緩めた。

「……『nenel』ってのは、『温かい』とか『美味い』って意味なんだろうな。『この肉は硬い』って苦情じゃないことだけは確かだ」

 ニコが共通語でぼやくと、サラエロスは言葉の意味こそ分からないものの、ニコの穏やかな目元と声のトーンから「憎まれ口を叩きながら喜んでいる」ことを正確に読み取り、くすくすと笑った。

 

 二人は並んで草の上に腰を下ろし、風が吹き抜ける丘の上で静かに食事をとった。

 これから向かうのは、教導院の支配から解き放たれたサラエロスの故郷――歌森の里(サシエムサマン)だ。そしてその先にある、まだ見ぬいくつもの街と森。

 

 食事を終え、立ち上がったサラエロスが、吹き抜ける緑の風に髪を揺らしながら、澄んだ声でゆっくりと言葉を紡いだ。

「〈sasila mesem sasivin masam〉」

 ――新しい風と、光の森へ。

 そして、隣に立つニコを見上げ、慈しむような旋律で続けた。

「〈ramel ニコ sasiel zemzi〉」

 ――私とニコは、共に歌を歌う。

 

 ニコはしばらく黙ってその美しい音の連なりを聞いていた。

 意味の細部までは分からない。文法も、語源も、まだ手探りだ。

 けれど、その中に自分の名前『ニコ』があり、第1話の焚き火の夜から何度も聞いてきた『sasiel(歌)』と『masam(森)』という響きが含まれていることは分かった。

 

 ニコは肩の槍を持ち直し、少しだけ照れくさそうに鼻頭を掻いてから、普段の無機質な共通語の中に、不器用な発音でその音を混ぜて口にした。

「……ああ。行くか、サラエロス。お前の言う『masam(森)』へ、新しい『sasiel(歌)』を探しにな」

 

 ニコの口からこぼれた、たどたどしい翠響語の断片。

 サラエロスは驚いたように目を見開き、やがてこれまでで一番眩しい笑顔を咲かせて、力強く頷いた。

 背中の槍と、サラエロスの紋様が、心地よい春風のような微かな熱で共鳴している。

 平坦だった世界に生まれた、決して平坦ではない二人の旅路が、今ここから始まろうとしていた。

 

(了)