第5話 沈黙の咆哮、壊れた魔導具の果てに

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 北の旧聖堂跡は、かつて長命種の祖先たちが星と歌を祀った神殿であり、今では中央教導院が『共通語』の基幹回路を張り巡らせた巨大な演算塔へと改造されていた。

 崩れかけた白亜の円柱が並ぶ大広間の中央に、純白と金の法衣を纏った男――教導院の最高幹部である大調律官ヴァルディスが立っていた。彼の背後には、巨大な水晶の律動炉が不気味な灰色の光を脈打たせている。

 

 扉を蹴り開けて踏み込んできたニコとサラエロスを見下ろし、ヴァルディスは一片の感情も宿らない声で言った。

「『よく来た、欠陥だらけの旧時代の遺物よ』」

「遺物はお互い様だろうが、ヴァルディス。人がせっかく森の奥で静かに暮らしてたってのに、野暮な呼び出しをしやがって」

 ニコは装甲の半ば剥がれかけた神槍――戦槌(ポールハンマー)の外殻を一部だけ残した異形の槍を肩に担ぎ、不敵に笑った。

 ヴァルディスは細い目をわずかに細めた。

「『かつて始原の災厄を封じた英雄ニコ。貴様がなぜその槍を鉛で封じ、共通語の世界に身を潜めたのか、我々は知っている。人の強い感情と共鳴の言葉は、増大すれば暴走し、世界を焼き尽くすからだ。だからこそ我々は共通語によって心というバグを削ぎ落とし、絶対の平穏を築いた!』」

 

 ヴァルディスが両腕を広げると、背後の律動炉が轟音を立てて回転を始めた。

「『その検体――サラエロスの波形を炉に捧げれば、共通語の網は完成する。二度と誰も傷つかず、誰も涙を流さない、完全なる無音の楽園だ!』」

 律動炉から放たれたのは、共通語を極限まで高密度に圧縮した『概念攻撃』だった。

 『虚無(ヴォイド)』『規格化(ノーマライズ)』『完全沈黙(トータル・サイレンス)』――!

 黒い鉛のような言葉の奔流が、大広間の空間そのものを塗り潰しながらサラエロスの精神を直接平坦化しようと襲いかかる。

 

「させるかよッ!」

 ニコが地面を蹴り、サラエロスの前に立ち塞がった。

 神槍を大車輪のように振るい、降り注ぐ概念の奔流を真っ向から受け止める。鉄と概念が激突し、凄まじい火花と衝撃波が石畳を砕いた。

 ギギギ、とニコの全身の骨が軋み、口の端から血が滲む。共通語の使い手でもあるニコ自身の神経にも、『平坦化』の猛毒が容赦なく侵食してくる。

 その背後で、サラエロスもまた概念の余波に晒され、膝をついて苦悶の息を漏らしていた。

「ニコ……! 〈ramel sasivil karaskos〉……!」

 ――私の声で、あなたを守る……!

 サラエロスが必死に言葉を紡ごうとするが、律動炉が放つ圧倒的なノイズがそれを押し潰そうとする。

 

 その時、過負荷に晒され続けていたニコの耳元の翻訳魔導具が、限界を迎えてピピピッ! と狂ったような警告音を上げた。

『〈警告:言語定義ファイル破損――翻訳不能――この肉は硬い――天候は晴天――廃棄処分――再起動不能――〉』

 支離滅裂な事務用語の羅列を最後に、耳元の魔導具がパチン! と音を立てて完全に破裂し、小さな破片となって床に散らばった。

 

 翻訳機能が、完全に停止した。

 もはやニコの耳には、機械の合成音は届かない。サラエロスの首にも、共通語を変換する首輪はない。

 二人の間を繋いでいた不完全な「翻訳」の回路は、すべて断ち切られた。

 

 だが――ニコは血を拭い、振り返ることなく、これまでで最も力強い声で叫んだ。

「今は何も考えるな、サラエロス! 意味なんて通じなくていい、お前のその『音』を鳴らし続けろ!!」

 

 その共通語の叫びは、もはや平坦ではなかった。

 意味としての単語は分からなくとも、ニコの背中から伝わる圧倒的な覚悟と、槍を握る手の震え、そして声に宿った「魂の波形」が、サラエロスの胸を直撃した。

 言葉を介さない、純粋な意志の共鳴。

 サラエロスの瞳から迷いが消えた。

 彼は立ち上がり、ニコの背中にそっと自らの両手を重ねた。肌の紋様が黄金と翠の入り混じった極光を放ち、ニコの神槍へと直接流れ込んでいく。

「〈zam nenel zemvar〉……!」

 ――あなたの沈黙は、こんなにも温かい音だ!

 そしてサラエロスは、肺の空気のすべてを振り絞り、始原の咆哮を解き放った。

 

「〈shaashi shaashiraal keresh zhem kaaraashkor〉――ッ!!」

 ――共鳴の波形よ、鎖の言葉を打ち砕け!!

 

 サラエロスの声と、ニコの無言の咆哮が、完全に一つの波形へと重なり合った。

 神槍に残っていた最後の鉛の拘束具が粉々に砕け散り、天を衝くような翠の光の柱が聖堂の天井を突き破って夜空へと噴き上がった。

「『ば、馬鹿な……! 翻訳も統制も介さず、異なる言語の魂が直接共鳴して出力を増幅させているだと……!?』」

 ヴァルディスが驚愕に顔を歪め、最大出力の概念障壁を展開する。

 

「終わりだ、ヴァルディス! 歩きにくい道だが――こいつと歩くほうが、お前らの退屈な楽園よりよっぽどマシなんでね!」

 ニコが踏み込み、サラエロスの歌を宿した神槍を渾身の力で突き出した。

 放たれた『沈黙の咆哮(サイレント・レゾナンス)』の奔流が、灰色の概念攻撃を真正面から呑み込み、ヴァルディスの障壁ごと背後の巨大律動炉を一刀両断に貫いた。

 

 ズガアアアアアンッ!!

 眩い光の爆発が大広間を満たし、中央教導院が築き上げた精神統制の基幹回路が、美しい翠色の光の粒となって砕け散っていった。

 爆風の中で、力を使い果たしたサラエロスがふらりと倒れかかる。

 ニコは神槍を床に突き立ててその細い身体を片腕でしっかりと抱き留め、崩れ落ちる律動炉の残骸を静かに見届けていた。