第2話 硬い肉、あるいは歌森への望郷

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 翌朝、ニコが拠点にしている森の古びた石造りの小屋には、香ばしい脂の焼ける匂いが立ち込めていた。

 粗末な木のテーブルを挟んで、ニコと人柱が向かい合って座っている。

 隅の寝台脇にはあの巨大な戦槌(ポールハンマー)が立てかけられており、分厚い鉛の封印具の下から、人柱の呼吸に合わせるような微弱な共鳴熱を絶えず放っていた。

 

 ニコは無言で鉄鍋から干し肉のソテーを木の皿に取り分け、硬い黒パンと一緒に人柱の前へ押しやった。

 人柱は、昨夜ニコから貸し与えられた大きすぎる麻のシャツの袖を握りしめ、警戒と戸惑いが入り混じった翠の瞳で皿の上の肉を見つめている。長命種のコミュニティで『人柱(ラッソヴェル)』として秘儀の祭壇に縛り付けられていた彼にとって、誰かと一つの食卓を囲むという行為そのものが、ひどく異質で信じがたいものだった。

 

「食え。毒は入っていない。入れるほど暇じゃない」

 ニコが平坦な共通語(コモン・コード)で告げる。

 人柱の首筋に残された検体用の翻訳首輪がピピ、と無機質な電子音を鳴らし、ニコの声を乾いた砂が擦れるような事務的ノイズへと変換した。言葉の意味はやはり分からない。だが、ニコが自分の皿の肉をフォークで突き刺し、無造作に口へ運んで見せたことで、「食べていい」という意図だけは伝わった。

 人柱はおずおずと木のスプーンを取り、温かなスープと肉を口にした。

 塩気と獣脂の強い味が舌の上に広がる。それは故郷の清らかな水と木の実の味とはまるで違ったが、凍えきっていた臓腑に確かな熱を灯した。

 

 その熱が、堰き止められていた感情を決壊させた。

 ぽろり、と人柱の長い睫毛から大粒の涙がこぼれ落ち、木の皿に落ちた。

「……っ、〈ramel Sasiemsaman nanelmil〉!」

 ――私は、歌森の里(サシエムサマン)へ帰りたい!

 スプーンを握りしめたまま、人柱は故郷の翠響語(セルヴァ)で悲痛な叫びをぶつけた。声の波形が激しく乱れ、壁際の戦槌がごうん、と低く呼応する。

「〈sasise karasen keres sasia karaskor〉……!」

 ――あの秘儀は、血の鎖で魂を砕くものだった! 世界を支える祈りなんかじゃない、私たちの歌をすり潰して、灰色の言葉の礎にするための生贄だったんだ……!

 必死の訴えだった。コミュニティの真実を知ってしまった絶望、故郷を失った喪失感、そして目の前の得体の知れない男へのすがるような救いの求め。複雑な母音と流音が折り重なる翠響語の旋律は、本来ならば聴く者の胸を締め付けるほどの情緒を持っていた。

 

 だが――ニコの耳元に引っ掛けられた安物の量産型翻訳魔導具は、激しい感情の波形を処理しきれずに赤いエラー光を点滅させ、冷徹な機械音声でこう上書きした。

『〈苦情申立:コノ肉ハ規定ヨリ硬イデス。調理工程ニ重大ナ欠陥ガアリマス。即時ノ改善ヲ要求シマス〉』

 

 ニコはフォークを止め、呆れたように半眼で人柱を見つめた。

 目の前の長命種の若者は、涙をボロボロと零しながら、今にも世界の終わりが来たかのような悲壮な形相で皿の上の干し肉を睨みつけている。

「……お前、泣くほど飯の好みがうるさいのか」

 ニコは大きく肩をすくめ、苦笑を漏らした。

「悪かったな。保存用の塩漬け肉だ、筋張ってるのは仕様だよ。そんなに文句があるなら、次はもう少しマシな食材を街で仕入れてきてやる」

 ニコが立ち上がり、自分の分から比較的柔らかそうな脂身の多い肉片をナイフで切り取って、人柱の皿にぽいと乗せた。

 今度は人柱の方が目を丸くした。

 魂の絶望を吐露したはずなのに、目の前の男はなぜか溜息をつきながら、追加の肉を分けてくれたのだ。涙が引っ込み、人柱は呆気にとられたまま、湯気を立てる肉片とニコの無表情な顔を交互に見比べた。

 

「……? 〈rares〉……?」

 ――あなたは、いったい……?

 拍子抜けしたように人柱が呟くと、ニコの魔導具が『〈質問:追加料金ハ発生シマスか〉』と訳した。

「発生しない。食ったら皿を洗え、それでチャラだ」

 ニコが乱暴に手を振って見せると、そのあまりにも俗っぽく穏やかな身振りに、人柱の張り詰めていた神経からふっと力が抜けた。

 言葉は致命的なまでに食い違っている。それでも、この男が自分を害そうとしていないこと、そして差し出された肉が温かいことだけは、どんな魔導具のバグにも歪めようのない事実だった。

 

 食事を終えた後、人柱はテーブルの木目に指先を這わせ、少しだけ迷うような素振りを見せてから、自分の胸にそっと手を当てた。

 それからニコの瞳をまっすぐに見つめ、澄んだ声でゆっくりと音を紡いだ。

「〈ramel zemor Saraelos〉」

 ――私の名は、サラエロス。

 『共鳴する魂の児(sasi-rael)』を語源に持つ、故郷の里で母から授かった本当の名前。教導院の追手からも、コミュニティの長老たちからも『人柱』という記号でしか呼ばれなくなった彼が、自らの意志で取り戻した音だった。

 

 ニコの魔導具がジジ、とノイズを鳴らす。

『〈個体識別番号:サ・ラ・エ・ロ・ス。登録カテゴリハ未定義デス〉』

 固有名詞だけは、安物の魔導具でもそのままの音で透過されたらしい。

「サラエロス、か。人柱って呼ぶよりは、いくらかマシな響きだな」

 ニコは自分の胸を親指で軽く指した。

「ニコだ。ただのしがない旅人だよ」

 人柱――サラエロスは、首輪のノイズの向こうにあるニコの生の声色を直接聞き取ろうとするように耳を澄ませ、その短い音節を唇の上で何度も転がした。

「……ニコ」

 翠響語の柔らかな発音で紡がれたその二音は、共通語の平坦な響きとはまるで違う、小さな鈴を鳴らしたような温度を持っていた。

 その瞬間、またしても部屋の隅の戦槌がかすかに震え、サラエロスの鎖骨の下に刻まれた紋様が淡い翠光を放った。

 二人の間に、言葉の定義を超えた奇妙な静寂と、確かな共鳴の余韻が流れていた。