第3話 灰色の境界街と、存在しない言葉

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 森を抜けた先に広がる境界街メマサマラン(Memasamaran)は、音のない水槽のような場所だった。

 かつては翠響語で『風と木の街(mesem-masamar)』と呼ばれていたその交易都市も、今では中央教導院が敷いた共通語(コモン・コード)の網によって完全に統制されている。

 

 ニコはサラエロスの頭から深い灰色のフードを被せ、素肌の紋様(サシス)と首元の拘束具の跡を隠して街の大通りを歩いていた。ニコの背中には相変わらず、封印具でぐるぐる巻きにされた巨大な戦槌(ポールハンマー)が担がれている。

「いいか、フードを取るなよ。適当に頷いていれば、誰も気に留めやしない」

 ニコの低い共通語は、サラエロスの首輪を通して規則的な電子音に変換される。サラエロスは意味を解さないまま、ニコの背中のすぐ後ろを、外套の裾を掴まんばかりの距離でついて歩いた。

 

 大通りには多くの市民が行き交っていたが、そこには市場特有の喧騒も、笑い声も、怒号すらもなかった。

「『こちらの物品を標準価格にて購入します』」

「『承諾しました。決済処理を完了します』」

 露店の商人も、買い物客も、さらには道端を歩く子どもたちに至るまで、全員が同じ抑揚、同じ速度、同じ平坦な声色で共通語を交わしている。

 この世界の言語技術――共通語は、単なる意思疎通の道具ではない。発声する者の脳波と声帯に干渉し、怒りや悲しみ、歓喜といった「過度な感情の波形」を自動的に削ぎ落とす精神統制機構でもあった。感情の起伏がなければ、争いも起きず、中央の『秘儀』に対する疑問や反逆の意志も生まれない。

 

 サラエロスはフードの奥で息を呑み、凍りついたような街の光景を見つめた。

 彼ら長命種のコミュニティが『世界の安定のため』と騙されて差し出し続けてきた人柱の魂と声の波形は、こんなにも冷たく、死んだような平穏を維持するための燃料として消費されていたのだ。

「……〈Memasamaran raner masamnis zam〉」

 ――この街の瞳は、灰の沈黙だ。

 サラエロスが震える声で呟くと、ニコの耳元の魔導具が『〈環境測定:大気中ノ粉塵濃度ハ基準値内、騒音レベルハゼロデス〉』と無機質に翻訳した。

「ああ、静かすぎて耳が痛くなるだろ」

 ニコは事もなげに言い、路地裏の馴染みの雑貨屋へと足を向けた。

 

 その道すがら、大通りの角で小さな人だかりができていた。

 教導院の治安維持官が、荷車を引いた老いた農夫を取り囲んでいる。荷車の車輪が溝にはまり、積み荷の果物が泥道に散乱していたが、農夫の顔には焦りも悲しみも浮かんでいなかった。ただ壊れた機械のように、平坦な声で同じ文言を繰り返している。

「『輸送中の破損が発生しました。規定に基づく処罰を申請します』」

「『申請を受理。怠慢による規範違反として、労働日数の加算を命じる』」

 誰も果物を拾おうとしない。誰も老人に手を貸そうとしない。怒りも同情も、共通語の語彙体系によって最初から「不要なノイズ」として切り捨てられているからだ。

 

 サラエロスは思わず一歩を踏み出し、泥に転がった赤い果実を拾い上げて老人の荷車に戻そうとした。

 だがその瞬間、治安維持官のひとりが鋭い視線を向け、サラエロスの細い手首を掴もうとした。

「『待て。未登録の個体か。首元の識別番号を提示しろ――この対象は誰の所有物だ』」

 

 治安維持官の言葉が、サラエロスの首輪を通じて翠響語へと逆翻訳される。

 しかし、翠響語には『管理』も『共通語』も、そして人をモノとして扱う『所有』という概念も存在しない。

 首輪の魔導回路が激しく火花を散らし、サラエロスの耳に歪な翻訳音声を叩き込んだ。

 ――『灰の音(masamnis zemvar)』の『鎖の言葉(keres zem)』に従え。お前は誰の『――(翻訳不能:空所)』か!

 

「っ、〈ramel — ne〉! 〈masamnis zemvar keres zem〉……!」

 ――私は誰の『所有物(――)』でもない! 灰の音も、鎖の言葉もいらない!

 サラエロスが悲痛な声を上げ、フードの下の紋様が一瞬だけ強く発光した。

 ニコの魔導具が『〈エラー:所有権データガ破損シテイマス。強制ロックヲ解除シマス〉』とけたたましく警報を鳴らす。

 治安維持官の顔色が変わった。「『この波形……脱走した検体――』」

 

 治安維持官が警笛に手をかけるより早く、分厚い外套を着たニコが二人の間にぬっと割り込んだ。

「やれやれ、うちの従者が世間知らずで済まないね、役人さん」

 ニコは世慣れた凡庸な旅人の笑みを浮かべながら、治安維持官の肩をぽんと叩いた。

 ただそれだけの動作だった。だが、ニコが指先から流し込んだ極小の共通語――『忘却(イグノア)』の概念干渉が、治安維持官の認識を瞬時に書き換えた。

「『……異常なし。通行を許可する。荷車の回収を急げ』」

 治安維持官は何事もなかったかのように踵を返し、虚ろな足取りで去っていった。

 

 一方で、露店の陰や建物の二階から一部始終を見ていた街の古参の住人や情報屋たちは、「ああ、またあの『元・英雄さん』が無茶をやってるよ」「面倒くさがりのくせに、厄介な迷い子を拾ったもんだ」とでも言いたげな生暖かい視線を送り、そっと窓を閉めて見ぬふりを決め込んだ。

 

 ニコはサラエロスの手首を引き、人目のない裏路地へと連れ込んだ。

 壁に背を預け、荒い息を吐くサラエロスのフードを直し、ニコは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「目立つなって言っただろうが。お前のその言葉は、この街の連中にとっては劇薬なんだよ」

 サラエロスは胸元を押さえ、悔しさと悲しみに潤んだ瞳でニコを見上げた。

 なぜ、この世界の言葉はこんなにも冷たいのか。なぜ、人が人を縛るための言葉ばかりが溢れているのか。

 サラエロスの唇から漏れる微かな翠響語の震えは、魔導具を通せば相変わらず『〈空調設備ノ不具合ニヨリ息苦シイデス〉』という滑稽な苦情に変換されていた。

 だが、ニコはその機械音声を聞き流しながら、自分の背中で熱く脈打つ戦槌の感触に、彼の本当の叫びを感じ取っていた。

「……息苦しいのは、俺も同じだよ」

 誰にも聞こえないほど低く呟いたニコの共通語には、平坦なはずの規律からわずかに逸脱した、苦い熱が混じっていた。